ちなみに、この本を書いた時期の下村氏は文部科学大臣であって、在任中の2015年6月には全国の、国立大学法人学長(または総長)ら宛てに、人文科学や社会科学の意義について否定的ともとれる通知を出して、反論や擁護など、様々な混乱を引き起こした過去がある。
なお下村氏はこの本が日本文化優位論などではないと書いているものの、例えばP77で「日本人は深い共生感を持ち・・・(中略)・・・では、世界の国々は、どれ程深い共生感を持っているのでしょうか。残念ながら、現在の人類は、まだ深い共生感に到っていないと思います。」(P77)という。
だが一方においては、中韓との関係についても、P116で中国政府と韓国を批判した上でP116で「このように、中国や韓国との関係は、いますぐ相互理解を深め、相互親善を深めていくことは、少し難しい状況下と思います。」とある。どうも、日本人の深い共生感をうたっているものの、外交に対してはタフなポリシーを取っているようだ。
まだ言わせてもらえばP89からP90で「地方創世も、日本型資本主義の復活から」と題した一節で「「目に見えない資本」や「ボランタリー経済」は、日本だけでなく、発展途上国や新興国においては、まだ豊かに残っています。」として、欧米の資本主義を否定的に描いている。
どうも日本の社会的な安定性を経済の基盤に求める議論は、一昔前にはやったフランシス・フクヤマの「『信』無くば立たず」あたりを彷彿とさせる(それ自体は、それ程間違いとは思わない)が、筆者の理解では欧米と途上国や新興国を問わず、基本的な治安が良好な国の方が経済発展においては成功しやすいわけで、途上国であれば素朴に目に見えない資本があるというのはずいぶん気楽なものの見方に思える(むしろ、治安が悪い国や汚職の深刻な国は、新興国であっても経済成長の伸びが良くない)。
またP27では天災地変が起こりやすいことを理由に、「日本の国土は、非常にエネルギーが強いところなのだろう、と私は思います。」とした上で「エネルギーが大きいというのは、パワースポットだということでしょう。」とよく分からない表現をしている(英語版のP24では、翻訳者が苦慮したせいか、「in feng shui terms」、つまり「風水学上の意味で」、という日本語現文にはない表現が付け加えられている。)。
ただ、下村氏の表現を見る限り、このエネルギーは物理学的な意味には留まらないようである。つまり29ページになると「日本がこのように、永年にわたりエネルギーを蓄え、日本が世界で一番古い国と成り得た理由を考えてみるとそれは万世一系、つまり皇室があったからこそ可能になったといえると思います。」となるのだ。ちなみにP28~29では、「アメリカの土地よりも日本の土地のほうが、エネルギーがあふれている。だからカボチャも、日本のカボチャのほうが特別肥料を与えなくてもおいしい」、という発見がなされたエピソードをつづっている。
ここまで来ると筆者には、「エネルギー」について下村氏が何を言いたいのかさっぱりわからない(なんとか、自然災害に物理的なエネルギーがあることは分かるが、それと皇室が関係していたり、カボチャについての違いを土壌や養分ではなくエネルギー概念で説明しようとされると、もう無理である)。
なお、皇室とエネルギーについての箇所も英語版(P27)では、翻訳者がマズいと思ったのかどうか理由は不明だが下村氏特有の神秘主義的な内容が、修正・または削除されており「Although the subject of the Japanese Imperial family can be considered controversial, I believe that the imperial family is key to understanding Japanese philosophy and history, and the Japanese worldview.」(皇室に関する話題は、論争的なものとも捉えられているが、私が信じるところでは皇室は日本の哲学及び歴史、そして日本人の世界観を理解する鍵である。)となっている。
あと、(作物との相性や気候の問題ではなく)アメリカの土地を「エネルギー」が日本より少ないとされてるところも、アメリカ人ならば絶対にこの記述を読んで不愉快に感じそうである。
また他にも、「パルテノン神殿と伊勢神宮」と題した一節では、伊勢神宮がまだ残っているにも関わらずギリシャのパルテノン神殿については「モスクとなってしまい・・中略・・ついには、今のような廃墟となってしまったのです」というふうな表現がしてあり、ギリシャ人とトルコ人を両方いちどに怒らせるような表現が用いられている(P19。「なってしまった」は、ネガティブなトーンを持ち得る表現であり、筆者ならば他の宗教施設に使われるようになったことを表現する際には、絶対に使わない)
個人的には、オカルトまたはカルトのようにもとれる著書の記述の方もやはり、非常に混乱を招くもので、あと今回の件については擁護がとても難しいように感じる。